第5章 人間の心 choiyaki
人間と機械・動物の違いから、人間の能力を明らかに
p205.機械ーそして科学的な推論は、一般的に論理的かつ無矛盾なものである。
やから人工的に生み出された言語は、機械にとって理想的。演算によって論理的に処理できるから。
ただ、それで物事をうまく認識できるというと、そうではない。
科学が光を当てるのは、
p203.観測や測定が可能なもの、注意深くコントロールすれば実験室で再現が可能なものに限られている。
人間の認知は、それとは比べ物にならないくらいに複雑。で、人間には演算能力はもともと備わっておらず、アーティファクトを用いたり相当な訓練を積んでも間違ったりする。その点においては、機械には勝てない、と言える。けど、機械が処理できないようなより複雑なものを習得することができる。
p206.人間の言語は、数学的な基準から言えば桁外れに複雑である。その多くの側面が科学的な記述を寄せ付けていない。それにもかかわらず、一般の人間は、母国語であれば、学校で学ばなくても、つまり正式な訓練を受けなくても、苦もなく習得することができる。
人間と機械は異なる動作をしているのは簡単に理解できる。同じような原理で動いていないから。では、人間と動物ではどう異なっているのか。
p207.われわれの脳には類人猿にはない能力が備わっているのである。最も重要な相違点、それは人間に内省という思考能力があるという点である。
言語や美術やユーモアやジョークなどなどがわかるのは、因果的説明を構成する能力が必要。
p208.こうした能力にはすべて、洗練された心、すなわち知識やメタ知識を表し、表象を形成し、表象と表象を比較し、そして世界で起きたことの因果的説明を構成する能力をもつ心というものが必要になる。われわれは欲求や動機、願望そして自己と他者の能力に対する表象を形成するのである。心のパワーとは、その表象形成能力にあり、そこには他者の視点に立つという能力も含まれている。
一見、集団で行動し、それぞれがそれぞれの役割を担っていると、お互いを認識して行動しているかのように見えるが、実際は違う。
p216.アリは驚くほど多くの仕事を協力によって行うが、それは神経系の一部に配線済みの形で組み込まれているからで、協同作業に対する欲求が意識されたからではない。アリは、知覚した状況に対して単に反応しているに過ぎない。
人間は前述の通り、自己と他者の能力に対する表象を形成し、他者の視点に立つことができる。
p217.単純な配線済みの行動が、洗練された行動を生むことを説明しているように思われる。問題は、こうした組み込み型の協調行動が固定で変化しない点である。その行動は、協調の必要な状況が消滅しても変化しない。この柔軟性の欠如こそが、進化によって形成された生物学的協調行動(配線済みのもの)と、意図によって作られる認知的協調行動とを区別するのである。
相手の意図を汲み取れることは、コミュニケーションにとって不可欠。
教育について考えると、教えたことの模倣は霊長類でもできる。が、教えたことを間違えた時、正しく導こうとすると、相手が何を間違っているかを理解しなければいけない
p220.われわれは、詩、音楽、芸術、科学、数学、論理というものを発明してきた。これらすべては、人口の装置、アーティファクトを使うことで増強される。われわれ人間は、思考を支援する仕掛けを心の外に作り出すことで脳のパワーの限界を克服しようとしてきた。心のもつ表現能力を、心の外にある構造と表現を使って、つまり認知のアーティファクトを使って、拡張しているのである。
詩、音楽、芸術も、人口の装置で増強される?音楽や芸術は確かに道具を使う。詩は?書くことにより?
進化の説明のところでは、第4段階が外部の装置を、つまり「認知のアーティファクト」を使う段階としているけど、ここまでの話は演技や神話が動物よりも優れたコミュニケーションを可能にしていることにしか触れられていないような。認知のアーティファクトを使って拡張している話はされていない。
この後にも、認知の特性が話されて、それを補うアーティファクトの要件については語られる。が、認知のアーティファクトによる拡張の話ってどこのことなのかな?
これよりも前の章とか?第3章とかにも書かれていたか。
ここからは人間の認知について、物語好きなことや間違いかたなんかについて書かれるけど、一つ疑問に思ったのは、この部分。
p221.体験モードというのが、われわれの好むやり方
この章では、「われわれの脳には類人猿にはない能力が備わっているのである。最も重要な相違点、それは人間に内省という思考能力があるという点である。」と語られてた。けど、人間は体験モードを好んでる。
動物の「進化によって形成された生物学的協調行動(配線済みのもの)」と、人間の体験モードとの違いはなんなのか?
おそらくは、この章に書かれている人間の認知特性は、基本的には動物にはないものと考えられるのかな。「与えられた情報以上のことがわかる」という、識別する力が。
ここまでに語られてた内容は、内省の話なのか体験の話なのか。
書かれている一つ一つ、部分部分については納得感がありつつも、全体としてちゃんとわかっている感覚になれないのは、こういうところにあるのかもしれないね。
一方で、「人間の認知」以降については、自分の中ですんなり整理できた。
p222.われわれは意思決定や問題解決に際し、ほとんどの場合、現在の状況を以前のなんらかの体験と比べるアナロジーというものを用いる。…記憶ないで利用可能なものとは、二つの特性ー最近の出来事、もしくは個別性が強く感情を喚起させる出来事ーのどちらかを備えている。
最近の記憶とか、強く感情を喚起させる出来事が思い出されがち。
p234.証拠がすべて揃う前でも素早く判断でき、関係のない情報から関係あるものだけを素早く取捨選択できるというのが、人間の知性の強みの一つである。われわれが機械より優れ、熟達者が初心者より優れているのは、この能力のおかげと言える。問題なのは、事態の解釈を誤ったせいでこの素晴らしい特質が脇道に逸れた場合に、その方向の修正が極めて困難になってしまうことなのである。
素早く判断できるが、それが間違っている時の修正は難しく、間違っていることを認識するのも簡単ではない。
以上の認知の特性から、どういったものが人間の認知を補いうるかが、以下。
p239.われわれに必要なのは、過去の統計や事例が対話的に使える豊富なデータベースをもち、それを意思決定の際に自動的に利用させてくれる機械である。
最近の記憶とか、強く感情を喚起させられる出来事に限らないデータベース。
p240.人間は間違う。特に不向きなことを強いられると間違う。テクノロジーをデザインする際のコツとは、エラーを最小に、エラーの影響を最小に、そしてエラーが起きてもそれを発見する機会を最大にする状況を用意することだ。これが、人間中心の作法というものなのである。
素早い判断のエラーを最小にしてくれて、しかもエラーが起きたら分かるようなデザイン。